どこを
東海地方では有名な大企業D社を退職しました。 実に9年も勤めていたようです*1。
経緯
* 入社前
東北大学院情報科学研究科の大堀研究室にて、プログラミング言語の研究をしていました*2。 自分の研究は、関数型プログラミング言語のSML#コンパイラの内部機構とIDEの支援機能の連携でした*3。 他にも、コンパイラの中間表現をいじったり、授業やゼミでラムダ計算や論理学や並列計算や画像処理や、あれこれやっていたなぁとぼんやり思い出します*4。
学ぶのが好きで大学や大学院の授業は真面目に受けていました。 また、ゼミでは先生や先輩から知識から普段の生活まで様々なことを学ばせてもらいました。 ただ、当時はこの知識の貴重さへの認識が薄かったと思います。 しかし実務をして役立った知識はとても多く、その価値の重さを再認識しています。
* 新人研修時代
大企業らしく、半年以上の長い研修期間がありました。 ここで知り合い未だ付き合いがある友人もおり、ありがたいことです。 ただ、この友人の多くがすでに退職済みなのも愉快な話です。
研修の内容は、ビジネスマナーから始まり*5、社内の幅広い技術講義*6や、工場へ数ヶ月間配属される研修*7もありました。 その時のことは、みずぴーさんに誘われて工場実習日記に書きました。 この同人誌を書いていて具合が悪くなったのも、いい思い出です。
* 職場への配属後
人事部と面談をし「ぜひともソフトウェアの知識を活かせるところへ」と配属を希望しました。 配属先は材料系の部署でした。 配属直後にOJT担当者から「電子回路のプロが来ると期待していたよ」と言われました。 人生、何が起こるのか何もわかりませんね。
配属先では、熱機器の構造設計から始まり、紆余曲折を経て、最終的にはセンサーデータの表示・処理機器の開発をやっていました。 この機器の開発にあたっては、回路設計、基板設計、構造設計や組み立て、ソフトウェア(ICとのやりとりから表示まで)とすべてを担当していました。 使っていた技術は簡易ですが、Design Spark PCBでアナログ/デジタル回路、C/C++、Qt、データ処理にPythonなどです。
他にも物理サーバーが1つ手に入ったので*8、Wekanでカンバン、GitBucketでGitレポジトリ、Jenkinsでビルド・テストCIを建てて運用していました。
振り返ると我ながら幅広くやっていたと思います。 1つ機器を作るための一通りの知識を得られたのは貴重な経験でした。 ただ、言い換えれば孤軍奮闘苦節の日々でした。
働いて良かったところ
やはり大企業だけあって、給与体系はよかったと思います。 大学院卒で初任給は22万くらいでした。 そこから、昇給が毎年にあり、ボーナスもしっかり出ていました。 5年ほどで年収500万円は超え、より残業する同期の中には年収600万円以上の人もいたと思います。 さらに福利厚生もよく、持株会、選択式補助金、会社で斡旋の保険や貯蓄、と可処分所得をプラスする要素が多くありました。
仕事で使える予算の規模も大きかったです。 ハードウェア中心の大企業であるため、設備前提の金銭感覚だったと思います。 新人でも、年数百万円くらいなら簡単に申請が通りました。 また、部下がトライすることを肯定してくれる文化もありました。 おかげで、幅広い技術にトライできたと思います。
また、尊敬できる上司もいました。 特に過去に会社が苦しい時期を経験した世代に強い人が多いと感じました。 昔話も長いですが、たしかな技術力がある人があちこちに隠れ住んでいました。
退職理由
大きいのは職務内容の不一致です。 要望に対して真逆の職場に新人を配属をする人事部には不信感しかありません。 また、後半は先述のソフトウェアを4人ほどのチームで書いていました。 しかしそこでの開発が自分には合いませんでした。 例えば、チームメンバーはコードをフォルダコピーでやりとりしており、Gitを宣伝しても導入する雰囲気にはなりませんでした*9。 結局、1人Git開発をしており、共同開発者からもらったフォルダコピーをDiffに落とし込んだりしていました。
ハードウェア中心の企業だったため、ITへの投資が軽視されていたのも気になりました。 入社当初のPCはCeleronとメモリ2GBと、人権がありませんでした*10。 なんとか開発に使う理由で人権あるマシンを買うことができましたが、そのために何枚もの事務書類に加え、上司と上司の上司と上司の上司の上司の判子を…、と大変でした。 社内ではソフトウェア開発は仕様書を他社へ投げるのが基本で、ソフトウェア開発できる人も少なかったです。 開発の限界から上司に人員増員要請を何度も投げましたが、最後まで人は増えませんでした。
また、職場ガチャに負けた自分の職場には、足を引っ張るおじさんが多々いたのも、日々の精神が削られ嫌でした。 例えばトラブルが発生したとき、部下を守るべき上司が真っ先に「俺は悪くない」なんて言っちゃうような人がいました。 最近は社長が「変わろう」と声を上げているようですが、末端は何も変化ありませんでした*11。
またせっかく企業が大きく多様な組織があるのに、組織を越えた協力がしずらいと感じました。 他組織に相談に行くと、「余計なことをするな」「大変だねこれは、協力はしない」「厄介事を持ってくるな」という疎外感がありました。
社内ルールも厳しく古典的で、多数いる社員の誰もが悪いことをしないように、との雰囲気を感じました。 例えば、社内機密を宛先間違えしたからと、メールアドレスの自動入力機能が削除されたこともありました。 ミスを技術でなく制限で解決する方法に納得いかず抗議メールを送りました。 しかし、「上が承認したことなので」の一言で聞く耳持たずでした。 こういった脳死考えな人物が事務管理にいて、自分に迷惑がかかるのが嫌でした。
こういった日々精神が削られることが多く、ここで定年までの約40年間を過ごすのは身体が持たないと感じました。
今後について
初めての退職なので、正直言って何もわかりません*12。 半年くらいはハローワーク通いをやってみようと思っています。 行きたい旅行先も溜まっているしね。
大学院卒で素材はいいけど育ちが特殊な人材と認識しています。 初めての基板設計やプログラミング言語にも、必要ならばあれこれトライしてきました。 こんな人材ですが、興味がある企業があれば嬉しいです。 特に、家事や好きなことをしたいため、時短勤務や週4や週3の勤務に強く興味があります。
また、ここには書けないような愉快な話もあるので、興味ある方はご飯に行ったりよんたさんバーでもしましょう。
干し芋
なんの関係もありませんが、こちらに魔法のリンクを貼っておきます。
*1:実際は休職したためもう少し短い
*2:当時を思い出すと、自分の活動を研究というのはおこがましい気がする
*3:今はLSPなど標準化も進みよい時代になった
*4:他にもCPUアーキテクチャや電磁気学や宗教など多数の教科書が手元に残っており、大学の授業の多様性の素晴らしさを改めて思い起こされる
*5:圧迫授業なんてのもありました
*6:マイコンプログラミングから流体力学ま、さらには工具を持って機器をばらして組み立てたりもした
*7:人によっては夜勤もあった
*8:社内VPSもあったが、隣の組織が余らせていたのをもらうのに成功した
*9:自分以外はハードウェア設計の専門家が延長でコードを書いていたため、コード書きは主ではなかったという理由がある
*10:2017年頃?まで、新規購入はこのスペックだった
*11:社長の「変わろう」という声に対して、部屋を装飾したり、応援歌を作ったり、という冗談みたいなことがされていた
*12:働きたくないでござる